遊女と娼婦と、ときどき慰安婦
戦術・性病の側面から娼婦を国が管理する必要があった。
統治時代、海の向こう「外地」にも遊廓があった。
慰安婦の正体はほとんどが娼婦であり遊女。
大半がその道のプロ集団。
前回は戦場において
いかに娼婦(風俗)が必要なのかを紹介しました。
主な理由は
戦場内外で受けたストレスの発散です。
ガス抜きをする事によって
極度の緊張の維持を必要とされる戦場で生き続ける事が出来ました。
後半では日本の対応について紹介します。
目次
国が娼婦を管理する訳は
日本に限らず当時の世界では
各国が娼婦を管理する
いわゆる「公娼制」が当たり前であり
それがステータスとも呼ばれていました。
極端に言えばそこらに居る娼婦(私娼)に任せれば良いモノなのですが
なぜ、わざわざ国が管理すると言う手間を挟んだのでしょうか。
性病予防
主な理由はこれです。
前回でも紹介しましたが
性病になることは大幅な戦力ダウンです。
定期検査もせず
素性の分からない女性に身体を預けるのはリスクが大きすぎます。
スパイ防止
島国の日本は影響が無かったのですが
陸続きのヨーロッパでは
国による女性の見分けが難しいところがあります。
言葉を発すれば
その言語で安心できるかも知れませんが
その女性がすでに
娼婦に紛れたスパイかもしれません。
敵国に情報が抜かれたら死活問題です。
国が管理すると言うことは
病気だけで無く、身元まで把握すると同じです。
日本の場合
では日本はどうだったのでしょう?
結論から言えば公娼制は無かったのですが。
それに近い体制が構築され。
しかもどの国よりも簡単に運営が出来ました。
その過程がこちらです。
公娼と呼べるモノ「遊廓」があった
「国が娼婦を管理する」
どこかで来たことはありませんか?
そうです。
かつての吉原は江戸幕府が管理する「公娼街」でした。
江戸時代の終わりと共に
全ての遊廓は公娼では無くなりましたが。
世界大戦までの
約300年続いていたシステムとノウハウは
十分信頼に値します。
国が管理しなくとも
「臨時に遊廓を建てるので派遣してくれませんか?」
と国が言えば
それだけで半ば公娼制に近い体制が構築できたのです。
日本の風俗が独自に
かつ世界よりも洗礼されたからこそ出来た
「半公娼制」というスタイルが確立されたのです。
明治時代以降の遊廓事情
江戸から明治になり
吉原が公娼制ではなくなったと言いましたが
他にも変わった点があります。
遊女の身体検査と身元照会
明治以降は芸娼妓解放令の影響もあり。
女性は身元を証明しなければ
娼婦(遊女)として働けないシステムになりました。
戸籍は昔からあったのですが。
如何せん「その家に何人住んでいるか」程度の
ガバガバシステムでした。
明治以降になり
「誰が住んでいるか」と言う詳細になりました。
さらに証明書の他に
健康診断の診察書が必要になるので。
遊女になる時には
身元が分かり
健康状態も良好な事を
自治体(国が)が確認しているのです。
遊廓の場所は軍のそば
江戸時代までは
主要街道に遊廓が置かれていましたが。
明治以降は事情が変わります。
大きく変わったのが
「城の側」や
「港」「湖や高原」になります。
これは軍が活動するエリアが
駐屯地(城)や
造船場(港)
飛行訓練(湖や高原)になったため
遊廓も生まれました。
これは言ってみれば
軍がもっとも安定した
国家公務員のようなものであり
国の景気がどんなに悪くなろうとも
最終的に貧しくなるのは
その中枢にある軍だから。
側に置いておけば
遊廓も安泰だと言うことです。
国への営業の申請
江戸時代の終わりと共に公娼ではなくなりましたが。
そのかわり
それぞれのお店が国に申請する仕組みになりました。
今までが遊廓(土地)単位で扱われていたのが
店舗単位になりました。
今と自営業と同じですね。
ちゃんと国に申請して営業許可を貰うので
認められれば実質公娼と同じです。
慰安婦について
昨今どこかの国が騒がせている
いわゆる慰安婦について触れさせて下さい。
結論から言えば
慰安婦は娼婦です。
それも遊廓で働いていた遊女も居ました。
今は散々たかりのネタに使われていますが。
かつては彼女たちも国のために尽力をしていました。
その内情を紹介します。
日本統治時代の日本事情
択捉(ロシア)
台湾、朝鮮、満州(中国)も領土でした。
当時は都市部以外は荒れ地で
開拓・整備をするために
日本から沢山の労働者が海を渡りました。
いつの時代も
都市開発は大きなビジネスですからね。
神社、そして遊廓が建てられる
その過程で故郷を思う人たちが
日本ゆかりのモノを建てるのです。
神社なんてその筆頭です。
今、台湾に神社があるのは
統治時代に日本が建てたモノを残してあるからです。
他に娯楽施設のなかった遊廓も
その流れで建てられました。
本土と同じく
軍や交通の要所に生まれました。
吉原から旅だった一〇万の遊女
昭和10年~20年の間
10万人の遊女が
内地・外地にある駐屯地へ行ったと言われています。
もちろん強制ではありません。
彼女たちが選んだ道なわけですが。
戦地へ行くデメリットと同じくらい
メリットもありました。
安定した給料が入る
相手をする兵士さんは言わば国家公務員。
彼らからお金を貰うことは
それだけ安定した収入と生活が送れると言うことです。
当時の日本は贅沢を禁止されていたので
その場所に留まってもお客は来ません。
最悪、廃業かのたれ死にです。
そう考えると良い条件だと思いませんか?
雇い主からの解放
望んで遊女になる人などそうそういません。
とくに芸娼妓解放令があり
少ないなりにも職業の選択があるこの時代に
遊女の道を選ぶのはたいてい
前借金がゼットになっているからです。
借金返済まで続く生活が嫌になった遊女は
例え戦地だろうが解放されたいでしょう。
何だったら、派遣先から脱走してしまえば良いですからね。
借金を国が肩代わりしていたかは
定かではないですが
そのパターンも十分に考えられます。
思い人の近くで支えたい
もし好意を寄せているお客さまが
兵士になられて戦地へ向かったとしたら。
そばにいたいと思うのも1つの選択です。
あるいは国のためにと立ち上がる女性もいるでしょう。
遊女は娼婦であり慰安婦
軍は正常に機能させるために
「身元のわかる」「検査をした」娼婦が必要だった。
そしてそれを満たすのが全国の遊廓で働く遊女であり娼婦だった。
つまり大半がプロ集団であり
各々がその思惑のもと戦地へと旅立った。
余談 慰安婦請求を支払ったワケ
プロ集団と言えど
中には素人もいたし
雑な扱いを受けた娘もいたかもしれない。
ただ兵士さんとは違い
全てを把握できなかったので。
日本は
「とりあえずお金は出すから
後はそっちの方で分け合ってね
具体的な数はそっちの方が詳しいでしょ?
よろしく」
と言う意味を込めてお金を渡したのです。
向こうは
「人間単位で寄越せ」と
新しい被害者を生んでは請求している。
と言う状態です。
内部がゴタゴタした今
徴用工に乗り換えていますけどね。
まとめ
当時は誰もが
金のため、人のため、国のために選択し
自分のやれる限りのことをしました。
彼女たちもまた
立派に生きた
素晴らしい日本国民です。
だからこそ
自身の金儲けのために
彼女たちの名前を汚すようなことは許せません。
彼女たちは遊女であり娼婦であり英霊です。
執筆後記
男は明日のために戦い
女は男を信じて支援した
みんな国のために戦った。
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