客の食べ残ししか食べられなかったって?

2021年6月24日

健康な身体があってこその仕事

遊女は昼夜を通して働きずくめで食事をする時間が無く。
また店からも満足な食事も与えられず。

摂れた食事と言えば
接客をしたお客様が食べ残したご飯を頂くだけでした。

まったく酷い話です。
それが真実でしたらの話ですが。

残念ながらそれはあり得ません。
その訳をご紹介します。

食べる時間はある

見世には人がいっぱい

遊女が住み、働く見世
多くの従業員の支えで成り立っています。

見世の主人遣り手婆帳簿役、各部屋の行灯に油を差す若い衆
言い出したらキリがありません。

全盛期の吉原でも
遊女の人口は全体の半分程度と言いますから。

各店舗も
遊女その他従業員
もしくは
が妥当な割合でしょう。

食べる時間と順番

遊女を含めた従業員すべて
昼営業が始まる正午までには
食事を済ませなければいけません。

午前中
見世の一階にあるかまどはフル稼働。
ご飯が無い
なんてことはあり得ないです。

ただ順番は少なからずありました。
時間を追って紹介します。

「後朝の別れ」

吉原の1日は「後朝の別れ」と言う
客の送り出しから始まります。

前日お越し下さったお客様が
見世で一晩を過ごし
早朝4時に出て行きます。
(6時説アリ)

この時、お客さまに朝食は提供しません。

ホテルで言うなれば

21時チェックイン
4時チェックアウト
夕食アリ、朝食ナシ

と言ったところでしょうか。

この時点でお客様は全員送り出しています。
なので「昼夜を通して働きずくめ」と言う状況はありえません。

見世の従業員(一部の遊女)

お客様を送り出したあと
遊女は仮眠につきます。

その間に従業員が朝食をとります。
見世でのルールや作法を学ぶ禿
このタイミングで頂きます。

夜にお客様の相手が無く
個室を与えられていない遊女

台所が近場にありますので
自然と起床~食事という流れになるでしょう。

いただく人に対して
ご飯の炊き上がりが間に合わなければ
位の高い遊女からご飯が頂けます。

遊女

仮眠していた遊女は
午前10時頃に目覚め、食事をとります。

個室がある上級遊女若い衆部屋にご飯を持っていきます

それ以外の遊女は台所へ出向き食事を取ります。

こちらも上の階級の遊女から順に頂きます。

また上級遊女には
側でお手伝いをしながら
作法を学ぶ新造さんがいます。

改めて順番をみると

6時~

従業員
遊女(深夜勤務ナシ)
禿

10時~

遊女(深夜勤務アリ)
新造

となります。

また上級の遊女でも
深夜勤務が無かったり。
逆に下級遊女に
深夜勤務がある場合もあるので

実際にはそこまでしっかりとした順番はありませんでした。
それでも時間が重なれば
上位にいる遊女の方が優先されます。

こうして昼までに全従業員は朝食を取り終えます。

江戸時代は朝夕2食ですから
夜見世が始める
18時までに夕食も食べます。

余談1 当時の食事

当時の食事はご飯と味噌汁とお漬け物がメインです。
なので備え付けの釜から次々よそってあげます。

ご飯がなくなるなんて事はありません。
当時は朝に夕食分のご飯も炊いて作り置きしておきます。

一般家庭の場合
時間の掛かる炊飯を
1日に何度もしたくないと言う理由で。

見世の場合
お客様の目に付く場所だからと言う理由です。

余談2 ケチな主人?

たまに
「見世の主人はケチだからご飯は少しだけしか盛られなかった」
など言われますが。

江戸時代は
基本ご飯は小盛りで盛られます。
まだ食べられるならおかわりをすると言った感じです。
わんこ蕎麦みたいなモノだと思って下さい。

ケチと言われますが。
沢山盛って、食べられなければ捨てる方が無駄な行為です。

今よりももっとお米を大事にしていた時代。
ちゃんと食べられる量だけを盛る方が正しい考え方なのです。

食べる物もある。

仮に見世での食事を取り損なったとしましょう。
ですが吉原には果物八百屋があります。

場所は
揚屋町通り角町通り

そこに行商人用のスペースがあり。
外で仕入れた物を売っていました。

完売したら場所が空き
次の商人が並べるといったシステムです。

行商人なので他の地方へも出向きますが。
吉原なら自然と人が集まり
品物を完売させるにはうってつけの場所です。

市場で仕入れたら真っ先に行きますし。
ライバルだってたくさん現れます。

そのスペースに人がいないなんてありえません。

明治には吉原内に八百屋果物屋寿司屋
が構えています。

空いている時間にそこへ行き
買って食べれば良いじゃないですか。

余談3 カリスマ美容師

当時は
「吉原で商売する」と言うこと自体に
ブランドが付いていました。

テレビや映画が無い時代
それに変わるメディアが
歌舞伎落語浄瑠璃でした。

そしてその舞台には
たびたび吉原が登場します。

吉原へ足を運ぶ人は
さながら「聖地巡礼」の気分でしょう。
それほどの影響力を持った土地でした。

なので
流行も吉原から生まれました。
派手な髪型はその代表です。

髪結い師からしたら
「吉原で働いた」と言う宣伝文句だけで
余所でも生きていけます。

現代で言うところの
「多くのタレントさんのヘアメイクを担当した」ことがある
「青山のカリスマ美容師」とかでしょうか?

良く分からないけど
なんとなく行ってみたいと思いませんか?

そのブランド欲しさに
あらゆる業種の商人が吉原を目指しました。

外にもある

吉原には多くの人が通います。
その道中にも数多くのお店があり常に賑わっていました。

日本堤には出店
五十間道には茶屋が溢れんばかりにあります

遊女は原則遊廓の外に出られません。
ですが見世で働く若い者
お使いを頼むことは出来ます。

お金を使うこと=年季が増えること
に繋がりますが
空腹で倒れるくらいなら安いものでしょう。

余談4 本田宗一郎の知恵

ホンダの創業者本田宗一郎さんも
子供の頃は丁稚公奉として
雑用の日々を送っていました。

まだ入って間もなく
下には誰も居ない頃。

確かに食事は取れたのですが
ご飯と味噌汁はあるけど
味噌汁が具無しばかりでした。

もともと具沢山だったのですが

先輩方が先に取ってしまったからです。

男社会で日頃から雑用に走る育ち盛り
たくさん食べたいのが本音です。

そこで思いついたのは
「自分が朝食を作ってしまおう」と言うものでした。

朝早く起きて兄弟子、その他従業員
皆のご飯を作る
そして1番最初に椀によそってしまうのです。

お椀には炊きたてのご飯と
具だくさんの味噌汁で一杯

誰よりも早く起き兄弟子達の分を作ったのですから。
そのことは誰も責められません。

手に入らないなら作ってしまえば良い
と言う

後のホンダの理念にも繋がる信念を抱き
実際に行動に移していました。

「食べ残し」しか食べられない状況とは

これまでのお話を聞いて頂けたのなら
「食べ残し説」は皆無に等しいことは明白です。

ここからは1000歩譲って
「客の食べ残ししか食べられない」状況、境遇を紹介します。

絵に描いたような悪い見世

利益最優先。
超が付くドケチ。
遊女は使い捨ててナンボ。

の3拍子が揃った人間が主人なら
そんな仕打ちを受けるでしょう。

ただそれはありえません。
釜の飯を減らす事は
自分を含めた全従業員が空腹になります。

そして遊女は見世に借金をして働いているのです。
使い捨てて死なれた時の負債の方が
甚大なことぐらい倹約家なら分かるでしょう。

台所が無い見世

見世の規模が大きければ大きいほど
各設備も豊かになります。

かまどの数はその代表です。
大きな見世なら分かるだけでも
6つはあります。

これが例えば
長屋の1室
3畳ほどで台所が無い
低下層の見世ならばどうでしょう。

ですがこれでは
客も食べられません。
客が食べないのに「食べ残し」とは一体?

年季を早めるために節約

吉原から一刻も早く解放されたい遊女が
とにかく支出を減らすために
削れるものは削ると言った心理です。

これは奨学金返済を一刻も早く終える為に
日々、もやし中心の食生活をする
大学生の心理に似ていますね。

確かにこれなら
客の食べ残しを頼ります。

ですがこれは見世のせいと言うより
遊女側の自業自得なのでは無いでしょうか?

まとめ

早く出たい遊女の気持ちも分かります。
もしもに備えて貯蓄、倹約したい見世の気持ちも分かります。

ですが
健康な身体があってこその仕事です。

倒れてしまえば元も子もないのです。
そこから考えても食事を蔑ろにするなんてありえません。

執筆後記

米は正義!

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吉原

Posted by 時雨宗晴