吉原が苦界ってマ!?

2021年7月11日

吉原の苦界史観は今をもって捨てましょう。

生きては苦界、死しては浄閑寺

「吉原」という言葉に一歩踏み込めば
誰もが必ず耳にする詩です。

東京メトロ日比谷線三ノ輪駅から
徒歩5分に位置する浄閑寺

ここは通称「投げ込み寺」と呼ばれ
上の詩は本堂裏にある慰霊碑
「吉原総霊塔」向かいの
石碑に刻まれています。

かつてこの地には
実の親に売られながら
吉原で健気に働くも

その劣悪な環境に耐えられず
志半ばで命を落とした遊女たちが
放り込まれた場所として有名です。

吉原を紹介する際には
このエピソードは欠かせず。

最近ではYOUTUBEで取り上げられると

  • 「厳しい掟に縛られてかわいそう」
  • 「遊女を粗末に扱う吉原は酷い」
  • 「女性蔑視だ!」


などと言ったコメントが埋め尽くされます。

そんな愛情あふれるコメントに
敬意を込めて
1言送らせて下さい。

はあ?

ココが変だよ苦界史観

吉原に関するさまざまな書籍がある今
掟やしきたりを否定するつもりはありません。

ただし
それが「辛い」とか「かわいそう」と言った感情に結びつけるのはお門違いです。

今からそれを2つ証明します。

年季について

遊女を体制的に縛りつける年季
詳しくは後日あらためて紹介しますが
ここでは
年季」=「借金」と頭に置いて下さい。

吉原へ売られた際に親御さんへ支払われたお代を
娘が遊女として働いて返す事が吉原での通例です。

そこまで大金ではないのですが
吉原での生活費や着物などの
経費が日々新たに課され
それが帳消しになるのに10年かかるという仕組みです。

こう聞くと吉原だけが特別かと思われますが
ちょっと待って下さい!

年季公奉は江戸時代では一般的な勤務形態です。
当時の一般庶民も寺子屋を出た後は「丁稚公奉」として各職人の家へ住み込み弟子入りします。

ホンダの創業者
本田宗一郎さんも「公奉人」として幼少期を過ごしていた事で有名です。

公奉人は恵まれている

「公奉」=「奴隷」と言う見方が定説ですが当時の生活をよく考えて下さい!

住居はエアコンの無い長屋の一室
4畳一間あれば広いほう

毎日汗水流して働いても
その日限りの収入しか稼げない。
そんな生活を一生します。

かたや公奉は職人さんの家に住み
衣食住は確約されている。

努力次第で将来は後継ぎに選ばれたり
暖簾分けのチャンスが巡ってくる。

遊廓で言えば遣り手婆がその席になります。

公奉人としてお世話になることは
メリットだらけです。

お歯黒溝について

吉原を囲う高い塀と深い堀。
1つしかない出入り口。

年季が体制的に縛るのならば
お歯黒溝は目に見える形で縛るシステムと言えます。

これも苦界史観を強めている要因ですが
今の時代にあって、当時無かったものを
蔑ろにしています。
それを意識して想像して下さい。

凶暴な野生動物対策

新吉原が移転した当時1657年
市街には野犬がいました。
当時の市街の様子を描いた絵画の中にも
野犬の歩く姿があります。

まだヒトと犬の関係が今ほど近くなかった時代

カブキ者と呼ばれる浪人が
悪戯に殺めたり

現在の韓国でも行われている
犬を食べる文化
「犬食」が平然と行われていました。

こうした状況に
幕府が対策として打ち出した
生類憐れみの令が発令したのは
約30年後の1687年になります。

吉原は食料が豊富な場所ですから
空腹に飢えた野犬に狙われるのは目に見えています。

さらに近場に小塚原刑場があります。
あそこは死罪の執行場で有名でした。

罪人の死体を丁寧に扱う訳も無く
その亡骸を狙っている獣もいます。

2020年5月
板橋区の河川敷に野生のシカが現れ話題になりました。

現代でさえシカが姿を見せるのです。
まだ都市として発展していない江戸時代
野生の動物が町中に現れても不思議ではありません。

それも今よりいっそう野生に近い獣です
不衛生な爪や牙に襲われた時の事を考えると
幅の広い堀の内側に高い塀を付けるのは十分考えられます。

あの構造を見ると
対人間だけに作られた物では無い事など容易に分かります。

その他にも説が

他には高価な着物の追い剥ぎや
金品の窃盗の予防が考えられます。

あとはヒト同士による
感染症予防も考えられます。

現在騒がれているコロナウイルスほど凶悪な物は滅多に発生していないのですが。

麻疹や水痘、泡疹や赤痢などの流行は
頻繁にありました

極端な話、性病の感染を予防したければ
客を部屋に通さなければ良いわけですから

それ以外の予防のためには
感染経路を限定し
見張りが目を光らせる事が得策です。

現在で言うところの
各空港での「水際対策」がそれにあたります。

吉原の門番は何も
脱走者だけを監視していた訳ではありません。

まとめ

さて、どうでしょうか?
吉原に対するイメージが変わりましたか?
少なくとも従来の「苦界」と呼ばれるものから変わったはずです。

そもそも「苦界」通りなら
なぜ彼女たちは結託し
逃げたり反旗を翻さなかったのでしょうか?

吉原の主役は遊女です。
彼女たちの稼ぎが店の首にかかっている事も少し考えれば分かるでしょう。

稼ぎ頭の彼女たちがストライキでもすれば良いじゃないですか。

熊本の二本木遊廓では待遇を巡って実際に起こしています
これが正しい対応です

でもそれが無かった。
350年の歴史の中で1度も。

ここから考えるに。
私達の思い描いている吉原は勝手な想像なのではないか

元々は違う姿だったのに
いつからか「苦界」と呼ばれるようになった

いつ?誰が?何のために?

それをこのブログで1つ1つ紐解かせてください。

やがてあなたが吉原大門の前に立ったとき
その視界に広がる景色を
ぜひとも教えて下されば幸いです。

執筆後記

そもそも車、住宅、子供の学費etc.
総額何十年のローン契約をしてしまえば
返済が終わるまでは無闇に会社を辞めれない。

時に辛くて行きたくない日も
出勤しなければならない。

住まいはあれど
1日の中で安らぐ時間は僅か。
それでも明日はやってくる・・・

あれ?
現代のほうが苦界なのでは?

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吉原

Posted by 時雨宗晴