吉原の創業が遅れたのは倫理的な理由?

2021年4月26日

幕府だって忙しいんだからね!

吉原誕生の経緯

吉原の歴史は古く
その始まりは江戸時代初期
現在の「千束」ではなく
「日本橋葺屋町」で産声をあげました。

時系列順に並べると

1600年 創業者・庄司甚右衛門、関ヶ原へ向かう道中の徳川家康と鈴ヶ森で出会う

     (諸説アリ)

1605年 甚右衛門、幕府へ遊廓設立の出願 却下
     (諸説アリ)

1612年 甚右衛門、幕府へ遊廓の申請(2回目、受理)

1618年 吉原営業開始

となっています。

吉原創設が遅れた定説

前半部分は
創業者にはありがちな武勇伝に近いので
スルーするとして

ここで気になるのが後半部分
申請から営業開始まで空いた6年の歳月

吉原に関する書籍ではたいてい
その理由が「倫理的な理由」
と片付けられます。

確かに遊廓は酒の席がメインで
現代で言えば新宿歌舞伎町がそれにあたり
治安も同じように不安定なのだろうと言った所で
まとめたのでしょうが

江戸時代初期
吉原どころか江戸という街作りにとりかかっている最中で
遊廓だけが倫理的な背景で遅れたと言うのは理由としては弱すぎます。

他の事情がいくつかあるので紹介します。

いろいろあった6年間

大阪の陣

歴史にくわしい方なら
さきほどの年表を見て察すると思いますが

受理から営業開始のちょうど最中
1614年~1615年に
大阪で戦国時代最後の戦いがありました

関ヶ原の戦いで大局は決まり
大方の結果は見えていましたが
それでも何が起こるか分かりません。

関ヶ原は寝返りが勝敗を分けたのですから
江戸に入った他国武将が
これを機に
突如幕府へ刃を向けたとしたら?

江戸の本格的な街作りは
不安要素を根絶したあと

そう考えるのが妥当でしょう。

大震災クラスの地震

日本の災害史を振り返ると
実は受理された1年前の1611年
三陸沖で大地震が起きています

その規模は東日本大震災に匹敵するほどで
津波による大災害も起きました

江戸でも地震の余波が起きても可笑しくありません
耐震性のまったくない江戸時代の家屋では
余震と言えど
とうてい耐えられないでしょう。

私達が思い描くような時代劇の美しい町並みとは
まったく違う光景が広がっていたはずです。

2つの先輩遊廓と約束されていた成功

実は分かっているだけでも
吉原は日本では3番目に生まれた遊廓なんです。

もともと遊女自体は
源平の時代からありました。

それを職業として定着させたのが
豊臣秀吉です。

荒れ果てた京の都で
「力仕事ができない女性にも働き口を」
と言った理由から遊廓が生まれました

それで1590年に生まれたのが
「柳町遊廓」
のちに移転して
現在ある「島原遊廓」となります。

さらに1607年
秀忠に将軍の座を譲り
家康は静岡にある駿府城に入ります

その際に城下に誕生したのが
「二丁目遊廓」

家康は吉原誕生の前に

自身の管轄するエリアで
遊廓誕生を許可させていたのです。

家康の政策、街作りは
秀吉の作った物をベースにしています。

女性の貴重な働き口である遊廓の
その重要性は秀吉の下にいた頃から
分かっていたのでは無いでしょうか?

それを今度は
自身の見える場所で管理し観察するのです。

遊廓が生み出すメリットやリスクを直に見て
どんな修正を加えれば良いのか。

時間を置き
「このルールならやっていける」と判断して
吉原創設にGOサインを出した。

そう考えるのが妥当です。

吉原が生まれたのが

柳町遊廓が生まれて約25年
二丁目遊廓が生まれてから約10年
データを集めるには十分な時間です。

その他の出来事

  • 家康の死去
  • 日光東照宮造営など

あらためて年表をまとめると

1590年 柳町遊廓誕生

1600年 関ヶ原の合戦
      (家康と庄司出会う)

1605年 1度目の遊廓出願(却下)
      (慶長地震)

1607年 二丁目遊廓誕生

1611年 三陸地震

1612年 2度目の遊廓出願(受理)

1614年 大阪夏の陣

1615年 大阪冬の陣

1616年 家康死去

1617年 日光東照宮造営

1618年 吉原 営業開始

まとめ

空白の6年の間
日本を揺るがす大きな出来事がたくさんありました。

幕府も次から次へと対応しなければならないので
吉原創設は後回しになっても頷けるかと思います。

一言に遊廓と言うと
「悪所」という先入観が生まれ

必ずネガティブな結論に導きがちです。

しかし、その視点を広げれば
さまざまな思惑が見えてきます。

どうか1つの価値観に縛られないで下さい。

執筆後記

倫理って言葉で片付ける人の倫理が
たいてい破綻してる説
あると思います。

吉原

Posted by 時雨宗晴