遊女は何処から来たのか?~女衒の足取りを辿る~後編~

2021年6月6日

生まれ故郷はとなり町

前編では女衒の足取りを
シミュレーションしました。

その結果

少なくとも
東北の山奥から吉原まで来るのに
相当の時間や費用
リスクが伴うこと
が分かりました。

後編では
従来のイメージを大きく覆す
新しいルートを紹介します。

貧しい農家ルート

前編で紹介した
皆さんがイメージするルートです。

特に東北地方
その地理・地形や環境により
良く不作に陥っていました。

もちろん
「生活に困り娘を売った」
と言うケースもゼロではなかったでしょう。

ただ前編で紹介したように

東北の山奥~吉原は
往復で30日
15両は越える出費と言う

あまりにも
多大な時間と費用が掛かります。

全てが貧しかった訳ではない

東北は常に
全てが貧しかった訳ではありません。

例えば当時の物流の要だった海運業

北前船(日本海側)
東廻り船(太平洋側)

その停泊港は
交易や、船員の宿場として栄えていました。

前編で取り上げた
区界」で少女を買った場合

目の前の山を越えるだけ
遊里のある港
鍬ヶ崎(宮古市)へ辿り着けたのです。

また西へ向かえば盛岡城があり
その城下町や町の外れにも遊廓があります。

いずれにしても
わざわざ吉原まで戻らなくとも
近くで売るのが賢い選択なのです。

不景気だった甲州街道

参勤交代
各国の大名様が街道を通ることで

それぞれの宿場へ
お金を落とし
経済をまわす仕組みが出来ていました。

当時は街道沿いに店を置けば
安泰と言われるほどでした。

ただ1つ
他と比べて大人しかった街道があります。

それが甲州街道でした。

江戸5街道の一角と呼ばれるほどの
主要道路でしたが

甲州街道は
江戸でもしもクーデターが起きた際
幕府の逃走に使う
言わば将軍の非常口という側面を持っていました。

利用客の少なさ=物価の高さに繋がり。

また
やや遠回りをする中山道に比べて
道が険しい事もあり。

参勤交代
ここを通る国も3カ国だけでした。
他に比べて圧倒的に少ないので
もちろんお金も落ちてきません。

甲州街道の名所も少なく
その魅力も東海道中山道に劣ります。
なので旅人も来ません。

東北みたいに湾岸が無いので。
それこそ不作に陥れば路頭に迷います。

私達がイメージする農家があるのなら
この街道が1番有力なのです。

歩き比丘尼と絵解き

江戸時代には日本全国を練り歩きながら
絵や歌を用いて
お寺(仏教)を紹介する
比丘尼・絵解きがいました。

もともと仏教の布教活動の1つ
不思議なイラストを見せ
関心を持たせてから紹介する手法があり。

それが歌や演奏を織り交ぜることで
芸能のジャンルとして変化しました。

それを見た客は
新しい価値観に刺激を受けますし
中にはお金を貯めて
そのお寺へ行きたくなるでしょう。

歩く宣伝カーと言った所でしょうか。

監視の厳しい関所
お寺事情には慣用で
女性でも絵解きと言えば
簡単に通れました。

有名処では熊野権現が広く知られますが。
大なり小なり
お寺は宣伝の為に
自分の所で絵解き・比丘尼を育てます。

それが後の
お寺の知名度アップ収入に繋がるのですから
喜んでやるでしょう。

江戸時代版赤ちゃんボックス

日本人が妊娠・出産の仕組みを知ったのは
大正時代でした。

それまで彼らは
子供は天からの授かり物とさえ思っていました。

そうとも知れず、
世間、特に
身近に行楽が無い田舎では
よく男女が身体を重ねました。

結果
女性は良く妊娠してしまう訳ですが。
その子供を育てられない場合
村に1つは必ずある
お寺に預けました。

確かにお寺なら
お賽銭という生活費があり。
住まいも狭い長屋ではなく
立派なお堂です。

そう考えれば文字通り
駆け込み寺としては合理的です。

お寺で育つ娘

お寺は生活面だけではなく
教育面でも優れています。

まず写軽を書けば
字の読み書きが上手になります。

そして田舎で寺子屋の役割をしていたのは
お寺の坊さんなのです。

また楽器の演奏や舞いは
その村に伝わる民謡で学べます。

田舎に実家がある人は
盆踊りを体験してみると分かりますが

祭りで踊る曲や舞いは
地域ごとに違っており
参加するだけでも自然と身につくモノです。

こうする事で
田舎育ちでも遊女に匹敵するほど
高い教養を身につけられます。

寺育ち~遊女ルート

歩き比丘尼・絵解きでも
潤沢なお金はありません。

むしろ現地調達がほとんどです。

絵解きで稼げなければ
身体で売る
など言うパターンが広く知られますが。

私はここに
「吉原へ売るルート」もあったと想定します。

全国を歩く最中
吉原へ立ち寄ります。

そこで絵解きのリーダー格の人が
見世の主人に直接交渉します。

寺育ちを売るメリット

1.見世側

  • 女衒の仲介料が入らず
  • さらに質の高い教養が始めから備わっています。

2.絵解き(お寺)側

  • お金が入る
  • 娘が吉原で活躍するたび育て親(お寺)の宣伝になる。
  • 接客で絵解きができれば普及につながる。

3.娘側

  • その技術を必要とされる場所へ収まった。
  • 全国道中しなくて済む。

それぞれにメリットが生まれます。

改めて経歴を見ると

  1. 望まぬ形で生まれる
  2. お寺に預けられる
  3. お寺で質の高い教養を身につける
  4. 比丘尼として全国道中
  5. 吉原で売られる。

武士の家庭

前編で「武家屋敷は無い」と言いましたが。
可能性はゼロではありません。

実際、元吉原時代にありました。

ただこの時の吉原は
以前こちらで話した通り

まだ「遊女=芸者」時代でしたし
武士達もそこまで貧しくは無かったので

「貧しい家が生活苦で・・・」とは
少し意味合いは変わってきます。

幕末に近づき
それぞれの国の財政状況が逼迫した時代なら
十分に考えられますが。
残念ながらその情報は残っていません。

仮にもしそうなった際
まず生活苦になるのは
江戸にある武家屋敷の住人ではなく
その国の故郷の住人の方が先です。

もし売られるなら
それぞれの国の最下層の庶民が
それも吉原へでは無く
近場の遊廓に売られる事でしょう。

いずれにしても
余程のことが無い限り
「武士の娘が吉原に売られる」
なんて事はありえません。

余談 お殿様から太鼓持ちに

これに該当するかは微妙ですが。
明治時代に入り
全国の旗本が「士族」になり
その身分を剥奪されました。

また始めは
政府からお米が支給されていたのですが
それも「秩禄処分」により
打ち切られ

身分も収入も失う事態が起きました。

路頭に迷う旗本を
哀れんだ知り合いの紹介で
吉原で幇間(太鼓持ち)に転職しました。

流れはかつてコチラで紹介した。
平家と同じ流れです。

その佇まいや武芸は
吉原で重宝されましたので。
同じく生活に困ることはなかったのです。

実は隣町からも

吉原
あるいは江戸で火事や災害が起きた際。

吉原のすべての門が開き
住人達は非難します。

家々が密集している吉原です
残っても火災、倒壊ともに
被害を被るのは必至ですからね。

避難先はそれぞれですが。

主な避難場所として
お寺、神社
空き地
見世の主の別荘
などがあります。

どれも共通するのが二次災害の防止であり
「なるべく空間が広いところへ」
と言うのが鉄則でした。

速やかに逃げ出せるように
あらかじめ場所を決めておき
全ての従業員の共通意識として
頭に入れておくのです。

避難訓練が出来ず
ぶっつけ本番
になるので
その背景があっての事情です。

お屋敷出身の遊女

そんな中、ある遊廓では
川(隅田川)向こうにある
「その見世で働く遊女の実家」
を避難先に設定していました。

避難先は
その火元や状況によって
プランA
プランB
と用意してありますが。

2手に別れて避難するなんて事はありません。
情報網のない時代
ひとたび行方不明になってしまえば
すぐに再会と言うのは至難の業です。

その人は路頭に迷ってしまうし
店側は貴重な人材を失うことになり。
良い事なんてまったくありません。

なので原則
「見世の従業員全てがそこに避難できる場所」が絶対条件でした。

その規模と家族の今

ここで気付くことが2つあります。

1、すぐ川向こうに遊女の生まれ故郷があったこと

2、そこは見世の従業人全員が避難できるスペースがあったこと。

です。

そして災害があった時
実際にそこへ非難しているのです。

つまり娘を吉原へ預けたあとも
その家で生活していた。

と言うことになります。

その規模と過程を見るに

私達が思う
「生活苦に困り娘を売った家庭」とは
とうてい思えない状況です。

岡場所の違法遊女が流れた

もともと吉原が誕生した背景に
「江戸中に悪所(遊廓)が散在しては風紀が乱れる」から
「1点に集中させましょう」と言う名目で
幕府に申請したところ通りました。

なので吉原は江戸で唯一
幕府から公式に許しを得た遊廓なのです。

しかし、こういった商売は
無くならないのが世の常で。

江戸のそこかしこでは
密かに行われていました。

特に近場の宿場街(品川)などは
遊女、サービスの質が高く
それでいて吉原より安く。

自然と人はそちらへ流れていきました。

もちろん非公認なので
定期的に幕府が取り締まり
そこで働く遊女を強制的に解雇させます。

よく他が頭角を現したから
みせしめにした処置と言われるものですが

それは少し違います。
なぜなら
解雇された遊女は吉原へ流れ着くからです

幕府によって流れ着いた遊女は
入札制により次の配属先が決まります。

エース級遊女を手に入れろ!

金額はまちまちでしたが
恐らくその遊女の残りの年季分を
吉原の見世が支払う
(入札)する形

つまり見世が
余所の見世から
遊女を身請けをしたのです。

身請けにかかる金額は
決して安くありません。

更に言えば
ライバルである宿場の遊女です。

見世側からしたら
即戦力の
エース級の遊女が入るワケです。

幕府が定期的に取り締まりをするたびに
吉原には質の高い遊女が入ってきました。

まとめ

私達が思い描いた「貧しい農家」と言うのは
ごく1部の人たちです。

少なくとも天下の吉原において
ライバル店が多い中、
新しく来る遊女の卵が

もし同じ素人でも
より良い育ちを求めるのは
商売として当然の感情です。

もし遠方から吉原へ流れ着いた場合

見世側の負担に見合うほど
そして
今いる遊女達に匹敵するほど
器量や容姿、佇まいを
持ち合わせる必要があります。

はたして
「田舎の貧しい農家の娘」
それがあるでしょうか?

イメージするケースは確かにあったでしょう。
しかし
それが全てでは無い可能性にも陽を当てて下さい。

執筆後記

0でもない
100でもない
誰でも良いってワケじゃない。

吉原

Posted by 時雨宗晴