遊女は何処から来たのか?~女衒の足取りを辿る~前編

2021年5月23日

割に合わない旅路

少女が生まれ育った農家が不作に陥り
明日のご飯も取れないくらい貧しくなる。

そこに女衒(遊女仲介屋)が現れ
「少女を質に入れれば救われる」と諭せば
その銭を親に託し
少女は苦界(吉原)へと連れて行かれる。

遊女の物語はこうして幕を開けます。

こう聞くと
「親御さんのために偉い」とか
「女衒はクソだ」などと言われますが

感情に振り回されて大事なことを忘れています。

それは「遊女はどこからきたのか?」です。

素朴な疑問ながら誰も触れなかったその足取り。

感情論を抜きにしてシュミレートしたところ。
意外な事実に辿り着いたので紹介します。

女衒とは

女衒とは「遊女の仲介屋」です。
聞こえは良いかも知れませんが。
要は「人身売買屋」です。

募集をかければ
専門サイトやホームページで
コンタクトが取れる現代とは違い
当時は店側が遊女(従業員)を探さねばなりませんでした。

現代なら人事部がそれを担当しますが。

今居る遊女がいつ
身請け、病気、脱走により
欠員するか分からないので。

そのためだけに誰かを雇う訳にもいかない。

女衒はその代役として生まれました。
そう言った側面もあり
最近は
「必要悪」として評価が変わりつつあります。

女衒について分かっていること

最近でこそ「必要悪」と言われますが。
当時、
特に「芸娼妓解放令」が生まれた明治以降は
人権団体の目の敵になり
その存在は闇のままです。

ただ分かっている事は2つあります。

女衒の住処

吉原の近辺では
浅草周辺に女衒屋がありました。

世間の目がありますから
「女衒屋」なんて堂々と看板は置けません

なので確証が無いのですが
幾つかの理由から
その見当が付きます。

  • 1、武士(武家屋敷内)は無い

バレると大事になるリスクが高いのでありえません。

仮に上手く誤魔化せても
近くには別の武家屋敷もあり
常に交流しています。

情報が漏れる可能性も考えれば危険な橋です。
江戸の半分近くは全国の武家屋敷なので
その候補が潰れます。

  • 2、十分な費用が必要

あとで紹介しますが
山奥の貧しい農村から吉原へと来るだけでも
多大な費用と時間がかかります。

それを持つ庶民は限られます。
少なくとも4畳半の長屋住みには
出来ない職業
です。

  • 3、女性(少女)を匿うスペースが必要

貧しい農村から連れてきて
その足で見世へとはなりません。

当時は今ほどしっかりとした
戸籍手続きは在りませんでしたが。

それでも町役場を通じて
届け出を出さなくてはいけません。

そうなれば数日間は女衒の家に暮らす訳です。
長屋住みなら窮屈なうえ
隣近所にバレます。
バレれば奉行所行きです。

なので庶民が住む長屋町も候補から消えます

以上のことから

武士(武家屋敷)ではなく
庶民(長屋)でもない
中階層の人物が住む場所(町屋・商屋)になります。

それがあった場所が
浅草や、いわゆる谷根千エリア周辺になります。

ここからなら
北関東・東北地方から少女を連れてきても
奥州街道から江戸へ入るので
町中も歩かず
比較的人目にも付きません。

少女の値段

もう一つ分かっているのは買った少女の値段です。

良く言われているのは
「5~10両で買い取り」
「30~50両で売る」
と書かれています。

売値の詳細は分かりませんが。
買値については幾つか記録があるので
定かかと思われます。

値段の幅の訳は
少女の容姿や佇まいに左右されると言われていますが。
江戸時代にも物価の波があったので
それも少なからず反映されていました。

なので多少の差はあれど
その数字自体にそこまでの差は無いです。

ちなみに大正期での前借金は3000円(約1200万)
と言う記録が残っています。

連続テレビ小説「マッサン」
マッサンを年棒4000円で雇うと言う回が話題になりましたが
それほどの価値です。

女衒になってみる

さて、ここからは女衒の身になり
少女を親御さんから買い取り
吉原の見世へ売りましょう。

感情論は抜きにして
その景色だけを想像してください。

女衒の設定

時は1700年中頃の晩秋
吉原全盛期と呼ばれた時代であり
日本全体もコレと言った混乱も無く
比較的穏やかな時代です。

あなたは浅草にある商屋の主人です。
表向きは裕福な家庭ですが。
裏では女衒の顔を持ちます。

そこに吉原の中クラスの見世
人員の補充を頼みに伺います。

報酬は先払いではありません
お金だけ奪って逃げられたらたまりませんから。

なので元手(実費)が必要になります。
とりあえず10両持って行きましょう。

少女の仕入れ先

さて次はどこへ行くかです。

まず西日本はありえません。
なぜなら向こうには既に
立派な遊廓が沢山あります。

わざわざ吉原まで連れてこなくても
ちらで売れば事は早く済みます。

また地図が無い時代
相当な土地勘が無ければ
意中の農村へ辿り着くことも出来ません。

さらに同業者のライバルも居るでしょう。

ここは比較的近く

ライバルが少ない
(北陸・善光寺×加賀藩×)
(北関東・成田山×、日光×)

東北を目指しましょう。

さらに限定します。
当時の運送は海運でしたから
海沿いは比較的栄えています。

なので内陸を選びます。
ただ主要街道沿いにも必ず遊廓・遊里がありました。

そう言う点から
「東北」「内陸」
「主要街道から外れた」村を目指しましょう。

今回は「岩手県宮古市区界」
それがあったと想定して向かいます。

注・実際にそう言った過去は御座いません。

往路

旅のルートは

  • 1,奥州街道を北上
  • 2,盛岡城のある盛岡宿
  • 3,そこから東にある区界峠を登って行きます。

その距離は530キロ

シンプルですが
鉄道の無い時代ですので
非常に険しい旅路になりそうです。

交通手段とかかる時間

主な交通方法は2つ

徒歩(自分)
徒歩(他人)です。

馬車の運用は明治以降ですので残念ながらありません。

当時の成人男性は平坦な道のりなら
1日9里から10里(約35キロ)歩けたと言います。

浅草~区界まで135里(530キロ)
単純計算で15日。
それも「片道で」です。

さあ頑張って行きましょう!

駕籠を使うと

さすがに15日歩き通しは辛いですね。
ならば駕籠を使いましょう。

ですがおすすめしません。
その理由が2つあります。

  • 1,駕籠にかかる費用

当時の駕籠は

1里=400文かかりました
目的地まで135里ですから
135×400で54000文

1両=4000文なので
片道交通費だけで
13両必要になります。

元手が10両では少女どころか
駕籠すらも満足に乗れません。

  • 2,大金を持っていると言うこと

そこにいる駕籠に
いきなり「盛岡の区界まで、金ならある」
と言ってみましょう。

その2人は目的地まで送ってくれる可能性はゼロになります

私が駕籠なら
少し離れた山奥に連れて行き
「ここが目的地だ」と言います。

相手が1度も訪れた事が無いなら
「自分は来たことがある」と言い
押し通します。

駄目なら実力行使です。

抵抗しても2対1です。
亡き者にして金を奪い
別の地で暮らします。
遺体など何処にでも捨て置けますからね。

そう言うことです。
なので駕籠を使うにしても
「足が疲れたら」「短距離で頼む」ことをおすすめします。

関所

浅草を発ちしばらく歩くと
利根川へ差し掛かります。
そこに現れたのは「房川渡中田関所」です。

関所と言えば
箱根が思い浮かびますが。
こちらは江戸の北を守る要所でした。

箱根の険しい山に対し
こちらは広大な川が立ちはだかります。

1人1人厳しいチェックを受けますが
「まだ」何も悪いことはしていません。

「日光への参拝」など適当に言い通過しましょう。

関所は国と国の境目に必ずあります。
箱根、利根川ほどでは無いのですが。
毎回チェックが入ります。

身分を証明できる書類
旅立つ前に町役場に申請すれば
用意してくれるので
大事に持っておきましょう。

旅籠屋

24時間歩き通しはさすがに堪えます。
さらに言えば
関所は24時間営業ではありません。

暗くなってきたら
大人しく旅籠屋に泊まりましょう。

料金は1800年代の東海道
一泊二日で170~200文
安い所なら150文もありました。

この物価は
それぞれの国の経済状況に左右されましたので
安く見積もりましょう。

旅路は片道15日
15日×150文=22500文
安い宿でも5.5両もします。

あらためて
少女の値段を言います

良く言われているのは
「5~10両で買い取り」
「30~50両で売る」
です。

この段階で
少女を買い取るために
どれだけの費用がかかるのか
おわかり頂けるかと思います。

川越え

奥州街道の比較的平坦な道を歩きます。
その先に待ち構えているのは
鬼怒川を始めとした1級2級河川たち。

当時は橋が作られても
夏場に台風が襲えば簡単に壊れます。
なので人の往来は船でした。

そこでもお金がかかります

東海道の大井川にある渡しは
その日の水深によって金額が左右されます。
水深が股なら最安値で48文
もっとも深い脇なら94文しました。

1人雇えばおんぶ
2人なら駕籠の川越えバージョンに乗って越えます。
料金は倍になりますがね。

そうとう穏やかで細い川では無い限り
大抵の川に橋は架けられず。
架けてあっても今ほど本数はないので
川を渡るごとに彼らのお世話になるでしょう。

足止め

また大雨による河川氾濫が起きれば渡れません。
大人しく近くにある旅籠屋に泊まり
嵐が去るまでずっと足止めを食らうことになります。

15日連続で快晴なんてことはありえません。
それはそれで異常気象です。
往復30日連続なら尚更です。

江戸時代の旅は
必ず何処かで足止めを食らうように出来ていました。

農村到着

早くても15日
ようやく村に辿り着きました。

噂通り不作に苦しむ農村。
中にはその辛さから泣いている者もいます。
これまでの苦労を知れば
泣きたいのはこちらだと言いたくなるでしょう。

その村民達から
未来の吉原を託せる少女を探します。

と言うより
これまでの出費を考えれば
絶対に探さねばなりません。

こちらで紹介しましたが
少女は7歳以上でなければいけません。

仮に売ることができても
その先で死なれたら
女衒としての信用が落ちます。

容姿も大事ですが
まずは健康を第一に選びましょう。

復路

来た道を帰る訳ですが。
1人の時とは明らかに違う事があります。

それは「若干7歳の少女を連れている」ということです。

歩く速さと負荷

先ほど

当時の成人男性は平坦な道のりなら
1日9里から10里(約35キロ)歩けたと言いました。

女性は年齢によりますが
6里から8里(22~31キロ)がやっとです。

7歳の少女が成人男性ほど早く歩けません。
仮に22キロならば

浅草~区界まで135里(530キロ)
15日で済んだはずの旅路が
24日もかかります。

さらに言えば
ついさっきまで不作に苦しんでいた村の少女です。

しばらくは十分に歩けません。
それでも早く帰りたいところですが
すでに彼女はあなたの大事な商品です。

傷物にする訳にはいきません。
彼女の安全を第一に帰らねばなりません。

交通費

少女の足が遅い
もしくは疲れているなら
駕籠をおすすめします。

ですが先ほども言ったとおり
片道交通費だけで
13両
は必要になります。

お財布と相談しながら手配してください。

宿泊費

さきほど
片道での宿泊費
安い宿(1泊2日食事付き)で
15日・計5・5両と紹介しました。

往復となると11両
ここに少女も連れて帰るのですから
プラス5.5両

宿泊費だけで計16・5両します。

関所

先ほどとは違い
隣には少女がいます。

当時から女性へのチェックは
身体の隅々まで調べるほど厳しいものでした。
しかしそれは「江戸から外へ出る時」が主なので
地方はそれほどではありません。

村を出るときに
少女には外出の届け出を役場から貰っています。

それがあれば大丈夫です。
ただ出発地(盛岡)から遠すぎると
怪しまれることもあります。

そんな時は
場所によってはお金で済みます。
チェックに時間を避けたくなければ
お金で解決してください。

家、そして売却へ

約1ヶ月の旅路を終え
少女を家へ連れてきます。

ここから役場へ届け出を出します。
お互いの親御さんの了承のもと
戸籍が変更され養子に入ります。

日数もお金も掛からないので
数日で終わります。

手続きが終わり
少女と吉原へ向かいます。

諸経費と日数

日数は早くて30日

駕籠を使わず、安い宿だと
16.5両。

ここに少女の買い取り金額
5~10両。

最安値で21.5両必要になります。

まとめ

売値が30~50両と言われていますが。
利益を考えると明らかにコスパが悪すぎます。

こんな商売が成り立っていたのか疑問に思えるくらいです。

ですがこれは
皆さんがイメージしていた
「地方の山奥の農村」の場合の話です。

今回のシミュレーションで
この線は「割に合わない」ことが証明されました。

そして実は
遊女は意外なところから
吉原へと辿り着いていた事が分かりました。

そのお話は、また次回。

執筆後記

水戸黄門一行の旅費って
どこから出てるんでしょうね。